ブログトップ

たまてぼっくす

tamabebox.exblog.jp

ぐるぐる&横道。「人間科学」養老孟司、前半の感想?

「人間科学」養老孟司という本を読んでいるのだが、示唆に富み過ぎてて途中でお腹イッパイになったので。

人間科学とは、「われわれは自分について何をしっているのか、ということ」だそうだ。

感じる、知る、考える、そういうことは脳の機能で、そういうことをヤル臓器が脳なので、「われわれが知っていることは、自分の脳の中にあるもの」で、「質問も答も脳の中」だから、そーいうことがぐるぐるになるのは当然なのだ。

従来の科学っていうのは、物質とエネルギーを扱う、「客観的」なものだけだった。「客観的」って言っても、考えてるのが脳なんだから、実は「ぐるぐる」が存在し、それを無理に除去して「客観的に」扱えるものだけを科学としてきた。けど、最近それだけではやってらんなくなってきた(らしいよ)。


で(?)、物質とエネルギーだけでは処理し切れない概念、「情報」というヤツが出て来た。

ヒトの情報世界は二種類あると養老せんせーは書いている。

1.遺伝子という情報記号を細胞というシステムが扱うヤツ
2.言葉(とか)という情報を脳(とか社会)というシステムが扱うヤツ
の2つだ。

そんで、その次に、情報と実体という話が出て来た。

リンゴ、という情報の場合、リンゴという言葉で抽象的に扱われる「情報」と、それだけではなくていまそこにあるリンゴという「実体」の違いについて。
英語では「情報」状態の場合、an apple(不特定)だけど、一度話に出て来た「実体リンゴ」の場合the apple(特定)になる?へーへーへー。

で、リンゴという「情報」については個人によってちょっとずつ違う。リンゴだとあんまり違わないけど、手の混んだものだと差がどんどん大きくなると思うよ。

・これはビスケットか、クッキーか?

・これは友達か、恋人か?

・これは歌舞伎か、ちがうのか?

あと、「情報」はシステムの中を移動したりして変らないけど、「実体」は変る。
なまのりんご は腐ったり食べたりでなくなるけど、リンゴという言葉は(それをあつかってるわれわれがいるかぎり?)不滅だ。遺伝子も細胞から細胞へコピーされて存在しつづける。

捧げるなら本物の薔薇よりも「薔薇という言葉はあなたのものだ。」とか言っとくか。シェークスピアっぽいね。…嫌な日本人だね。

でも、言葉では掬いとれない実体感みたいのがあって、そいつをどうもクオリアと呼ぶらしい(てきとーに検索してリンクしちゃった。いつもだけど)。

だからやっぱり薔薇の花をもらった方がカンド−するんじゃないでしょうか。

それでふと思ったのは、
私は「映画」を「情報」としてとらえていて、「芝居」(歌舞伎)を「実体」としてとらえているらしい。
そのために、「芝居に行くこと」は「映画館へ行くこと」よりも圧倒的に優先的であり、時間、エネルギー、金を使う優先順位がハッキリしていることだなあ、ということでした。

あと、わたしにとって観劇は「実体」を「体験」及び「参加」する行為だから、「芝居らしくない芝居」「歌舞伎らしくない歌舞伎」でも、「それが歌舞伎かどうか」「それが芝居かどうか」はあまり問題じゃないらしい。「うーんそりゃー百年後とかにわかるかもしんないねえ〜。」って感じ。
ま、そういうのを論じる きゃぱしてー が頭にないのか、訓練が足りないのかも。
好き嫌いと当たり外れの次元で、「それで金とるのかよ!」とかいう意味で「それで芝居かよ!」はアリね。
あと、そういうのを論じる人もアリ。でも、役者は「理屈」より「やってみせろ」。だって、あんたら「クオリアの憑代(よりしろ)」だもん。
江戸歌舞伎より上方歌舞伎の方が「くおりあくおりあしてる」かもねー♪

さーて、これから「社会」がでてくるけど、読み通せるかな?もう図書館の期限オーバーしてるけど。。。
[PR]
by urasimaru | 2005-10-09 22:51 | | Comments(6)
Commented by urasimaru at 2005-10-08 23:22
文字化けTBがあったので削除しました。書き直してるのにぶちあたったせいだったらやりなおしてちょー。文字化けTBはanyway消すね。
Commented by ぽん太 at 2005-10-09 19:19 x
ややこしそうな本だけど、ちょっと面白そう…。ただ、情報としての言葉も、実はとっても文化依存度が高くて、デジタルな意味での純粋情報にはならないところがあったりしますね。
昔聞いた話ですが、数の概念もどこぞの部族ではラクダが単位で、「1、2、3頭/後はいっぱいorたくさん」までしかないとか、日本語でいうところの「お湯」は英語などでは「熱い水」だったり、くるぶしに該当する訳語がないとか、色々難しいそうです。
日本語だと、虫の声も翻訳できないし、おのまとぺ(擬態語・擬声語)もお手上げだとか…。
でもって、脱線ついでに…。江戸の言葉でいまだによくわからない言葉の一つ、私的には「小股の切れ上がった」という表現。これがまあ諸説あって、「小股」ってどこ?というのがイマイチわからんのですわ(笑)
あと、実体としての芝居っつーのは、よくわかります。とりあえず、みとけ、まずはそれから…と思ってしまう私も、芝居はまず実体と思ってるんでしょうね。
Commented by urasimaru at 2005-10-10 11:49
ぽん太さん、たぶん本自体はややこしくないんですが、私がややこしくしている予感。
言葉の文科依存度、イヌイットは雪に対してすごくたくさんの言葉を持ってるとかそういうやつですね。言葉がないと、それに対応するモノも存在しなかったりするんですよね。肩凝りという言葉が知られるまで英語圏の人は「肩が凝らなかった」とか。(肩や首が突っ張ってた、らしい?)きっと「ぬるま湯のような状態」もないのかも。
「それが見える目で見ないと存在しないもの」ってあるらしいので、人によって同じ芝居を面白く思ったり思わなかったりするんでしょうね。
Commented by urasimaru at 2005-12-06 16:18
あ、こんなところに算数の話が。ラマチャンドランせんせー曰く、インドで算数が発明されるまで算数はなかったらしい。でも、脳の中には先天的にちょびっとたくさんを比較する物指しみたいのは存在するらしいっす。
ラマチャンドランせんせーは在米インド人。(インド人もびっくりって題名で感想を書こうかとも思ったりしました)
Commented by ぽん太 at 2005-12-06 17:09 x
インドの九九って、たしか18×18くらいまであるって聞いたことがあります。
今、インドからIT関連の人材が輩出してるのも、基礎数学(数の計算)あってこそとか。
ラマンチャもといラマチャンドランせんせーは、インドの人なのですか。
やっぱり、かなり面白そうですね〜(笑)
Commented by urasimaru at 2005-12-07 11:34
ラマン、いや、ラマチャンドランせんせーはインド出身でケンブリッジ出で今はアメリカにいるみたいです。一神教にしばられてないところが自由な発想の一因かも。
インド 九九、で検索したら20×20までとか99×99とか諸説ありました。どっちにしろすごいですう。
ふと、フランス語で九九って大変そうって思ったり。
<< 「ゾウの患者」デイビッド・テイラ− 阪神ファンが飛び込める様に道頓... >>